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2007年8月20日更新

三枚橋城・沼津城(さんまいばしじょう・ぬまづじょう)

三枚橋城

三枚橋城

永禄3年(1560)、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。

この頃の武田氏の、駿河における拠点の一つが三枚橋城であった。三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。同城の築城時期については天正5年(1577)に武田勝頼が築城したという説と、信玄生存中の元亀元年(1570)には既に築城されていたという説があり、現在では後者が有力で、同城の城主としては高坂源五郎が名高い。

この三枚橋城と川を挟んで対立したのが、後北条氏の戸倉城で、三枚橋城による武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。天正8年(1580)には、武田と後北条の水軍が重須沖の駿河湾で海戦を行っている。

このような武田氏の駿河における拠点であった三枚橋城も、天正10年(1582)に武田勝頼・信勝父子が天目山で自害し武田氏が滅亡すると、同城は徳川氏に明け渡され、家康の子、松平忠吉とその後見役の松平康親が入城している。

以後、豊臣方の中村一栄が城主となったが、慶長6年(1601)には徳川の家臣大久保忠佐が城主となり、2万石を与えられた。しかし、忠佐死後、後継者がないことを理由に慶長19年(1614)には廃城となった。

沼津城

沼津城

三枚橋城廃城後の沼津は、駿府領に編入されて代官支配となったが、安永6年(1777)水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、ここに沼津水野藩が誕生する。

この水野家は、享保10年(1725)忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こして領地が没収されたが、大伯父である忠穀に名跡相続が7千石が与えられた。その子忠友は出世し、沼津の地に城地を与えられて大名に復活した彼は、田沼意次と手を結び、側用人から老中格、老中となり、3万石に加増された。

2代目の忠成(ただあきら)も老中、老中首座となり、さらに2万石加増された。忠成の政治は、田沼と似て賄賂が幅を利かせているとして「水の出てもとの田沼となりにけり」と批判されたが、将軍家斉のもとで化政文化の花が開いた時期でもある。

忠成の後は、忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)と続き、忠良の時はペリー来航の頃で、領地に伊豆の白浜・稲取が含まれていたので海防警備に明け暮れている。忠誠は再び老中になっているが、第2次長州征伐の途次で病死し、次の忠敬(ただのり)の時に明治維新になり、上総国菊間に移封され、沼津は徳川宗家を継いだ徳川家達の府中藩の支配下に入ることになる。

沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城されている。城の南北は現在の野村證券の通りから静岡銀行沼津支店あたりで、大手門はうなぎの浜作本店あたりに造られ、本丸は中央公園辺りにあった。かつて三枚橋城の城内であった上土町や川廓町には、新たに往還道がつくられた。ただ、三枚橋城と比べ規模は小さい(1/2)。

明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、間もなく廃校となり、明治5年(1872)に城は県で競売に付し解体され、同22年(1889)、東海道線開通に伴い、南北に縦貫道路が設けられた。その後、沼津は2回の大火に遭遇し、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはできなくなった。

沼津城

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