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2013年8月27日更新

興国寺城(こうこくじじょう)

興国寺城

 興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。この城は、戦国時代に関東一円を支配した後北条氏の祖である伊勢新九郎長氏(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。

北条早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、駿河の守護今川義忠の側室であった姉妹を頼り、今川氏に身を寄せていた。文明8年(1476)義忠が急死すると、その後の相続争いに今川氏親を助けて功があり、長享2年(1488)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる。

この後、盛時は延徳3年(1491)に伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を襲って伊豆国を平定し、戦国大名としての第一歩を踏み出すが、興国寺城自体は継続して使用される。その後、興国寺城は戦国大名の争いの渦中におかれ、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の勢力下となり、慶長6年(1601)徳川家康の家臣天野三郎兵衛康景が1万石の城主となる。しかし康景は家臣をかばい自ら逐電してしまったため、慶長12年(1607年)興国寺城は廃城となった。

興国寺城は、北から北曲輪、本丸・二の丸・三の丸と呼ばれる平場が直線に造られ、東側には清水曲輪と呼ばれる曲輪(城の中に造られる平場)が配されている。静岡県東部を代表する山城で、約11,300uの面積をもつ。 本丸の背後には、天守台と伝えられる高台があり、発掘調査によって2棟の礎石建物が見つかっている。瓦の出土がないことから、一般的な城のイメージにある「天守閣」ではなかったと考えられるが、ここから三の丸内部を通る根方街道やさらに南の東海道を監視していたと思われる。

 興国寺城の見どころは、大土塁(防御用の土の壁)と天守台背後に造られた幅20m以上もある大空堀である。また天守台からは原の市街と駿河湾の景色を楽しむことができる。
 現在も整備に伴う発掘調査を継続して実施しており、120年間にわたる興国寺城の歴史が明らかになりつつある。沼津市では将来的にこの成果を報告書としてまとめたのちに、史跡公園としての活用を検討している。 なお、この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれている。

興国寺城

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