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長浜城跡(ながはまじょうあと)

2017年12月12日更新

この城郭は、戦国時代関東一円を治めた北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るための城と考えられている。 北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康の頃には領地を武蔵から下総まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、今川義元亡き後の駿河に侵入してきた武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。その伊豆における北条水軍根拠地の一つが、この重須湊・長浜城である。 このような情勢の中、天正7年(1579)には北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守が長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。戦いの結果は必ずしも明らかではないが、武田氏が織田信長に滅ぼされることで、一応の決着を見ることになった。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城となったものと考えられている。

また、北条水軍が小田原に集結した後の長浜城を守ったのは、在地土豪大川兵庫を中心とする地元住民だった。その後兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄え、大川家に残された古文書は、「豆州内浦漁民史料」として近世漁業の実態を知る上で貴重な材料となっている。

この長浜城は通称城山と呼ばれ、以前は旧財閥の三井家の別荘が建っていたが、昭和40年代に取り壊された後は荒れるにまかされていた。昭和60年には市教委による詳細分布調査が実施され、4つの曲輪と15の腰曲輪の他、曲輪上の土塁跡や6基の掘切等が確認されている。曲輪の一つ一つは小規模であるが、戦国時代後半の特徴的な防御構造を見ることができる。 その後昭和63年に国の史跡に指定され、平成6年度までには土地の公有化も完了し、平成7年度より保存整備に着手し、平成26年度に整備が終了している。平成27年度に史跡公園としてオープンし、約400年前の姿が復元された城跡を公開している。同年には調査と整備の成果をまとめた報告書が刊行されている。なお、この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれて いる。

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