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伝阿野全成・時元の墓(でんあのぜんじょう・ときもとのはか)

2007年8月20日更新

伝阿野全成・時元の墓 地図

阿野全成は、幼名を今若丸といい清和源氏の嫡流源義朝の7男であり、頼朝の異母弟である。母は有名な常盤御前で、弟に乙若丸・牛若丸がおり、後にそれぞれ義圓・義経と名乗っている。平治の乱で父義朝は死に、牛若丸を除き、今若丸と乙若丸は出家させられた。全成は山寺の醍醐寺に預けられたが、次第にたくましく成長し、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師とも呼ばれた。

治承4年(1180年)源頼朝が韮山で挙兵すると、全成はひそかに寺を抜け出し、修行をよそおいながら頼朝のもとに参ずると、頼朝はその志に涙して感動したという。

全成は頼朝を手助けした功績により、駿河国阿野庄(現在の東原、今沢から富士市境一帯)を与えられ、阿野を姓として阿野全成を名乗り、この地を根拠地とした。東井出に居館を構え、居館の一隅に持仏堂を建てて祖先の霊を弔った。これが現在の大泉寺である。

鎌倉に幕府を開き、武家政治を始めた頼朝は正治元年(1199年)に没したが、その後有力な御家人が次々と世を去ったため、源氏に代わって北条氏の勢力が次第に強くなっていった。全成は源氏の血を受け継ぐ者として、この状況を黙って見ていることができず、建仁3年(1203年)5月に阿野庄において北条氏討滅の兵を挙げたが、幕府軍に謀叛の罪で捕らえられ、常陸国(現在の茨城県)に流され同年6月23日下野国(現在の栃木県)で処刑された。全成の首は阿野庄全成の館へ届けられたと伝えられている。

その後、源氏の将軍として頼家、実朝が相次いで北条氏の謀略のために殺され、源氏の正統が絶えるに及んで、全成の長男時元も承久元年(1219年)2月11日にこの地で反北条の兵を挙げた。執権北条義時はただちに兵をさしむけ、交戦10日の後阿野一族は敗北して、時元も自殺した。全成・時元のものと伝えられている墓は井出・大泉寺にあり、昭和58年6月に市の史跡に指定されている。

大泉寺には、下野の国で処刑された全成の首が一夜のうちに阿野の地まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという伝説が伝わっているが、現在では首が掛かったという松はない。現在境内の保育園庭には、首掛松の切り株の複製と碑がつくられている。また、乳の出の悪い母親にイチョウの実を焼いて食べさせたところ、乳が出るようになったという、いちょう観音の伝説も残っている。

伝阿野全成・時元の墓

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