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興国寺城

2018年4月1日更新

室町時代

元冠以後しだいに力のおとろえていった鎌倉幕府は、後醍醐天皇に味方した足利尊氏や新田義貞らによってついに滅ぼされた。建武の新政のはじまりである。しかし、新政も長くは続かず、足利尊氏を中心とする武士らの動きによって南北朝の争乱がひきおこされていった。やがて、南北朝を統一した足利義満以後、しばらく室町幕府の政治は安定するが、しだいに守護大名の力が強くなり、彼らの対立から世の中が乱れていった。

守護大名と沼津

暦応1年(1338年)、今川範国は、足利尊氏から駿河国の守護職を与えられた。今川氏は、足利氏の一族で、このころから駿府(静岡市)を根拠地とするようになり、駿河から遠江にかけての強大な守護大名に成長していった。しかし、駿河の国の東端にある沼津郷では、曾我氏が今川氏から独立して支配を続けていたようである。曾我氏は、伊豆・駿河一帯に勢力をもった狩野氏の一族であった。守護大名の対立から、応仁1年(1467年)、応仁の乱となり、この乱をさかいに戦国時代となった。

戦国大名と沼津

文明8年(1476年)、今川義忠が死ぬと、跡継ぎをめぐって今川氏の内部で対立がおこった。このとき、対立をうまくおさめたのが伊勢新九郎長氏であった。長氏はこの功績により、富士下方十二郷を与えられ、興国寺城の城主となつた。興国寺城は、現在の沼津市の根古屋に築かれたもので、愛鷹山の山麓台地の下端を利用している。堀をめぐらし、堀の内側にはじょうぶな土囲いをつくって、天守台や石火矢台を設けている。こうして、伊勢長氏と沼津郷付近を支配する曾我氏は境を接することになったが、彼には、曾我氏を攻めるだけの力はまだなかったようである。延徳3年(1491年)、伊豆韮山の堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の弟)の死後、跡継ぎをめぐる混乱がおこると、長氏は、これに乗じて一気に堀越公方を攻め滅ぼした。以後、伊豆国は長氏のもとに従うことになり、彼は、興国寺城から韮山城へと移り、北条の姓を名のるようになった。ここに、戦国大名北条早雲(後北条氏)が誕生した。

愛鷹山の尾根を利用し、根古屋に築かれていた興国寺城跡

興国寺城跡航空写真

  • 興国寺城縄張り図
  • 興国寺城縄張り図
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このころから、沼津付近は、曾我氏にかわって今川氏の手に入り、その家臣葛山氏が支配することになった。やがて、葛山氏は、駿東一帯に根を張る有力な領主として成長し、駿府の今川氏と小田原の北条氏の間にあって、戦国時代を生き抜くためのさまざまな動きをするようになった。

条早雲の登場のころから、しだいに日本各地で戦いがくり返されるようになり、戦国大名が、領地をめぐって戦乱に明け暮れる本格的な戦国時代となっていった。沼津付近も今川・北条・武田という三つの強大な戦国大名の勢力がぶつかり合う地点となり、いくたびか戦いの舞台となった。

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