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清水柳北1号墳が作られる

2018年4月1日更新

このころの人々の生活

この時代にはすでに、片浜から原、さらに田子の浦海岸や内浦湾沿岸の海岸地域に集落が開けていた。このことは、これらの場所に点々と古墳がつくられたことから推測される。狩野川流域や浮島沼周辺では依然として農業が中心の生活をしていた。内浦湾沿岸の人々は漁撈を営んでおり、多くの土錘の発見から、地曳網も使われていたことが推測されている。

また、古墳時代にはいると、自然を崇拝する原始的な信仰が、豊作・豊漁・一族の安全を願うなど生活と結びついてさかんになった。この祭りが行われた跡を祭祀遺跡という。丸子神社旧境内から勾玉の石製模造品、長浜の白髭神社の境内から子持ち勾玉・滑石製の管玉・丸玉・勾玉の模造品、淡島や大瀬崎から土師器や須恵器など祭祀に使われたと考えられる遺物が多く出土している。

清水柳北1号墳

東名高速道路沼津インターの北方1キロメートルにある上円下方墳である。この上円下方墳というのは全国的に数少ないもので、京都や奈良に数例あるのみである。この古墳の被葬者は火葬にされており、埋葬後まもなく荒されたようである。出土品の須恵器からこの古墳は8世紀初めにつくられたとされている。その被葬者は、郡司クラスか後に述べる大野牧の責任者と想像されおり、沼津で作られた最後の古墳である。

  • 清水柳北1号墳を復元したもの。
    清水柳北1号墳復元
  • 上から見た清水柳北1号墳
    清水柳北1号墳
  • イラストで描かれた祭祀の様子。
    清水柳北1号墳祭祀

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